いま世界は、混迷の一途を辿っています。これまで当たり前であった決まりごとが崩れ、暴力による現状の強引な改変を追認するかのような事態が生じています。言論の自由を導くはずのインターネットが、欲望と感情の暴走を誘発し、事実と虚構の区別さえ曖昧にしてしまっています。わたしたちが子どもであった頃、大切だと言い聞かされた思いやりが薄れ、わずか一刹那の自分の利益を守るためだけに、決してしてはいけないと教えられたいわれのない差別、排外的な態度が、社会に蔓延するに至っています。
そうしたなか、大学や大学院に求められているものとは何でしょうか。学問には、一体何ができるのでしょうか。本学が建学の基礎に置くキリスト教ヒューマニズムは、そのように世界が歪んでゆくことを、決して座してみているだけの思想ではないはずです。
実学重視の雰囲気のなかで、人文学は趣味の学問、役に立たない学問だとの認識が広がっています。一方、少し上の世代の人文系研究者からは、「役に立たないことこそが学問の本質」と嘯く声も聞こえてきます。確かに、時代や社会の需要に軽薄に応えるだけの学問は、瞬く間にその生命を終えてしまうでしょう。時代や社会を超越した価値をいかに示せるか、何百年も先にまで残る研究成果をいかに打ち立てられるか。何ものにも惑わされず、地道に基礎研究を続けてゆくことの大切さは変わりません。その点で、「役に立たない」ことにも一理あります。しかし同時に、いま苦しんでいる人びとの声に背を向け、象牙の塔に死蔵されるだけの真理に、世界を照らすことができるとも思えません。
キリスト教は歴史上、多くの暴力に加担し、またその主体となってきました。現在はその反省のうえに立ち、絶えず自己中心主義を乗り越え、世界の理不尽と対峙するよう努めています。またアジアにおける「人文」の意味自体、「天文」が日月星辰の動きに天の意志を、「地文」が山川のありように地の法則を観測するものとすれば、人びとの言動をつぶさに捉え、君子の思考・行動の規範とするもののはずで、やはり具体的な実践と結びついているのです。
いま、わたしたちの眼の前に立ち塞がるさまざまな課題、問題に、自分の専門研究をもって正対し、格闘し、多様なアクターと関わりあうなかで、ともに学び、無知ゆえの挫折をのりこえてゆく。知ること、それをもとに考えること、考えを研ぎ澄ますこと、深めること。何度も試行錯誤を繰り返しながら、この世界と向きあってゆく。「言うは易し、行うは難し」ですが、そうした人文学研究の姿こそが、いま、本当に希求されているのではないでしょうか。
上智大学大学院文学研究科は、時代や世界と向きあい問い続けようとする、すべてのひとに開かれています。