メッセージ
「漢文など学ぶ必要はない」などとうそぶく向きが未だにいるようですが、私には全く理解できませんし、無知・不見識の甚だしさにあきれるばかりです。
日本人は古来、中国の文字・文章すなわち漢字・漢文を借りて、言葉を書き記してきました。我々が日常用いる文字は、漢字と、漢字から作られたひらがな・カタカナです。上代以来、漢詩文は、日本の主要な言語表現として作り、読まれ続けてきました。そればかりでなく、漢詩文の語法・表現・発想などが、日本語および日本文学に多大な影響を与えてきたのです。
私が専門とする江戸時代後期から明治にかけては、長い日本漢文学の歴史の中でも質・量ともに最盛期であったと言われています。特にこの時期の詩には、日常の風景や生活をこまやかに描きとった、現代の我々にも共感できるような作品が多く見られます。あるいは旅中の絶景や史跡、そこでの感慨を詠んだ詩が、その地を今日まで続く名所にした例も少なくありません。開国か攘夷か、尊皇か佐幕か、揺れ動く時代の中、己の思想や熱情を表現する際にも、漢詩文は大きな役割を果たします。明治に入って、書き言葉は文語から口語へ、所謂言文一致が達成されたというのが一般的な理解でしょうが、これは必ずしも正しい認識ではありません。口語体が成立・定着するのは明治期後半以降、それ以前に書き言葉として普及するのは「今体文」「普通文」と呼ばれた漢文書き下しの文体でした。このことは戦前の法令や公文書、演説、論文などがどのような文体で書かれていたか振り返ってみれば、十分納得されるはずです。
ことほどさように、日本の言葉や文化の基底には漢文学が存在し、これを無視しては日本語および日本の歴史と文化を理解し、考え、論ずることなど絶対にできないのです。
こうした認識の上に立って、上智国文では漢文学を研究・教育の柱の一つとしています。もちろん他大学の日本語・日本文学系学科の先生方も、同様の認識をお持ちでしょうが、一定数の漢文学の科目を必修科目や選択必修科目に組み込み、必ず履修しなければならないカリキュラムは珍しく、上智国文の特徴・強みの一つと言ってよいと思います。
そして、我々がこのような認識と方針のもとに研究・教育を行っているのは、無知・不見識から生まれる偏見・思い込みに囚われず、「日本」というものを過不足なく理解したい、またしなければならないと考えるからなのです。