(前回の続きです)
次に待乳山聖天から5分程度歩いて今戸神社を訪れました。今戸神社も浅草名所七福神の一つであり、招き猫発祥の地、沖田総司終焉の地を自称し、また現在は縁結びの神社として信仰を集めています。江戸時代には被差別民の長吏頭であった矢野弾左衛門の屋敷が裏にあり、矢野弾左衛門の支配する「穢多村」が近くにありました。今戸神社の周辺地域は現在、「穢多村」としての当時の面影が濃く残っている訳ではなく、普通の町の様相です。しかし、綺麗なもののみを見える様にし、そうでないものを隠すのが人間の性であり、「寝た子を起こすな」という言葉もあります。しかし、この地域で皮革産業が盛んであることは、弾左衛門が皮革産業を支配していた名残であり、面影が完全に無くなっている訳ではありません。同様のことは、神戸にもあると考えられます。神戸にも靴産業が盛んな地域があり、その地域の近くには花街や同和地区が存在していました。「寝た子を起こすな」の言葉もあり、既に同和地区の指定は外されていますが、現在もその面影があり、その背景を忘れてはならないでしょう。
今戸神社
その次は今戸神社からかつての山谷堀沿いを10分程度歩いて吉原大門から吉原に入りました。吉原は江戸幕府によって公認された遊郭であり、現在もその面影があります。また当時は山谷堀から船で吉原へ訪れるルートは「粋」であるとされていました。吉原大門から仲之町通を通り、吉原の出口近くまで進むと、吉原神社・吉原弁財天本宮が在ります。この2社には龍蛇信仰・弁財天・観音が神仏習合的に一つの信仰として昇華された名残があり、吉原遊女から篤く信仰されていたことが伺えます。
最後に吉原弁財天本宮から20分程度歩いて浄閑寺を訪れました。浄閑寺では吉原遊女の供養が行われており、安政大地震の際には多くの遊女の遺体が持ち込まれ、「投込寺」とも言われました。25,000人を供養する新吉原総霊塔の下部には遺骨が多数納められており、骨壺が並んでいる様子を外から伺うことができます。ここでは、綺麗なもののみを見える様にし、そうでないものを隠す、という人間の性に反し、通常は墓に収められ、他人からは見えないようにされるものであるはずの骨壺が誰でも見られます。
浄閑寺を訪れた後は、南千住駅まで歩き解散となりました。全行程で2時間程度であり、その間歩き続けていたので疲れましたが、それ以上に面白い知見と経験となりました。
北條ゼミ(プレゼミ)では、このような面白いエクスカーションを企画してくださいます。これは、他学科はもちろん史学科の中でも特に貴重な経験だと思います。エクスカーションの内容が直接自分の研究に関係が無くとも自分の研究に応用ができ、非常に視野が広がるきっかけとなります。本稿の視点とは違った視点からこのエクスカーションを捉えることもできるでしょう。今年度(始まってから大分経ちますが)もよろしくお願いします。(北條ゼミ3年、山本達也)