大澤 正昭 (おおさわ まさあき) 中国(唐・宋)社会の究明 〈2010年度版〉
最近、中国史を専攻しようとする学生が減っている。わが「少数精鋭」のゼミでも、ひところに比べて受講生がほぼ半分あるいは三分の一に減った。その大きな原因は最近の中国がらみの事件とその報道であろう。農薬餃子事件、チベット事件、貧富の格差拡大など、きわめてイメージが悪い。だから中国嫌いが増え、その歴史研究などに食指が動かないのかも知れない。
しかし、好き嫌いの感情と研究の面白さとはまったく別物である。好きな国だからといってその歴史が面白いとは限らないのだ。むしろ中国という存在は、研究対象としてきわめて魅力的だ。その魅力を一言でいえば、われわれ現代日本人の想像を超えた世界がそこに開けているということになろうか。よく日本と中国は親戚のようなものだといわれる。しかし私の感覚では欧米よりもはるかに遠い外国のような気がしている。人々の顔つきは似ているけれども、発想と行動のパターンは相当に異なっているのだ。その根元には人々の生き方の違いがある。
中国人が好きなたとえ話に、「中国人は一人では龍、集団では豚。日本人は一人では豚、集団では龍」というのがある。初めてこの話を聞いたとき、うーむ、かなり当たっているなと感じ入ってしまった。確かに中国人、あるいは留学生たちはみんなエネルギーにあふれ、元気に活動している。しっかり自己主張をして、個性的である。それに比べて日本の学生は何だか覇気がないし、個性も目立たない(自分の若い頃のことは、無論、棚に上げて)。かつて孫文は中国人を「バラバラの砂」にたとえたけれど、きっと同じことを言っていたのであろう。砂は、ひと粒ずつ独立していて、それぞれが相当な硬さをもっている。それを一種の国民性として指摘したのである。
ではこのような国民性はどのように培われてきたのだろうか。歴史学研究のひとつの課題である。これまでの研究では、いわゆる村落共同体の有無が鍵を握っていると考えられてきた。共同体社会の中で生きてきた日本人と、共同体がない社会で生きてきた中国人、この両者の違いである。しかし、そもそも人間は共同体なしに生きていけるのだろうか、農業生産はどのように維持していたのだろうか、国家は何をしていたのだろうか、などなど、知りたいことは山のように出てくる。学生の皆さん、しばし日本人の常識を棄てて、中国史と格闘してみませんか? (2009年2月)
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